○ 白石紙衣


 紙子としては最も全国に知れ渡ったものであるが、実はこの地では紙子と共に知られる「紙布」に重きを置いていたことは数多くの書物の「陸奥名物」の中には「紙子」の名は見えないが「紙布」だけは必ず書かれていることによっても分かる。しかし「白石紙子」や「仙台紙子」が記載されている書物も二、三ある。

宝暦四年(1754)刊『日本山海名物図会』の巻四には「奥州仙臺紙子」と題して

仙臺紙子地紙つよくよく能くもみぬきてこしらゆる故やわらかにしてつやよし、奥州は木綿すくなき故、中人以下はおほく紙子をきる也、夜具も大かたは紙子にてこしらゆる也
と説明し紙子屋の図を載せている。(下図)紙衣屋とは恐らく紙衣の製造業であったのであろう。

 また正徳二年刊の『和漢三才図会』から七年後の享保四年(1719)に仙台藩の儒者佐久間洞厳によって著された「奥羽觀蹟聞老志」の巻三によると
紙絹 出于刈田郡白石城邑倉本村、尤爲上品、以柿汁染紙繼而揉之、俗謂之紙絹、用之服以能避寒尤足以防風矣、其淡赤色或紫色近代有染而成文者、又所出于相馬、其制堅強以克堪多年而誦之擔株
とあり、「白石」では「染紙子」と文様のあるものをも製作し、その外「相馬」でも強い紙子を製作していたことが知られる。

 また白石内の詳しい産地は「風土記御用書出」に見えており、「安永六年(1777)」の「同藩刈田郡内各村産物」中には森合村(羽二重紙子)蔵本村(紙子)白石本郷(紙布紙子)長袋村(紙布紙)などの各村で当時紙子類を生産していたことが知られる。

 幕府の巡見使に従って日本全国を見て廻った地理学者、古河古松軒は『東遊雑記』巻十二、天明七年(1787)十月二日の項で

白石の名産に紙子を製す。他国になき上品なり
と評している。全国を巡り歩いた著者が、十月であれば、紙子の実物を見た上での言葉であろうから、信じてもよいと思われる

 元禄期の文人井原西鶴が紙衣を好んで物語の題材に用いたのは前章でも書いたが、「白石紙子」として特別に明記してあるものも幾つかある。『好色盛衰記』(貞享五年刊)にも

巻一「夢にも始末かんたん大臣」
御着物羽織と極め置くかたはら白石の紙子一反
と出てくるし、他にも『一目玉鉾』(元禄二年刊)の中にも
白石片倉小十郎居城、此所より名物に紙絹子出る
や『世間胸算用』(元禄五年刊)(巻二)に
白石の紙子一反
と記されているのが見える。ここで見える「紙子」は決してみすぼらしい貧者のための紙子ではなく、白石城家中の者が作った格の高い白石の特産品として紹介されている。

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