○ 文学に於いて


○ 井原西鶴

 元禄文学の代表的作家として今日世に知れ渡る井原西鶴(1642-93)は、巷に溢れる武士・町人の日常の生活の中に滑稽さを見出し、それらを写実的に描写した浮世草子作家として町人文学を確立した。彼の作品の中には、最下層の町民や没落した武士から、一代で財を成した者や頑なに戒律を守る僧、そして華やかな廓通いの野郎や遊郭の花魁や遊女まで、ありとあらゆる処遇の人物がそこかしこに登場し、そこはまるで元禄期の生活の集大成といえよう。その中でも西鶴はそれこそ彼の隠れたキーワードと云っても良い程様々な場面で紙子を登場させており、もしかしたら西鶴自身紙子をかなり愛用していたのではないかと思われる節も所々に見受けられる。さて西鶴が用いた紙子の表現を、彼の作品の中から時代を追って覗いてみることにしよう。

 まず西鶴四十一歳にしての処女作『好色一代男』(天和二年刊)(巻六)の「全盛歌書羽織」の場面にはこう書かれている。

初雪のあした紙子羽織に了佐極の手鏡、定家の歌切、頼政が三首物、素性法師の長歌その外世々の歌人の筆の跡をつがせて、是を着る事、身の程知らず勿体なし。尾州の傳七も領城二十三人の誓紙をつぎ集め、是も羽織にして、互に男ぶりをあらそひ、野秋にあひそめ、兩方すれ者、後は金銀の沙汰にもあらず、命あぶなし
 これは一は目利鑑定家の開祖古筆了佐(1582-1662)が関白秀次から賜った「琴山」の金印を押して証明した諸名家の歌切りなどを継ぎ合わせて羽織を作れば、他は二十三人の傾城遊女の艶っぽい誓紙消息などと継ぎ合せてこれも羽織を作ったというのである。まったく「身の程知らず」と呼ばれる程のとんでもない話であり過ぎるので、どうやら実際にあった話ではなさそうではあるが、切継の紙子は無い話ではなく、近代のものであるが切継の紙子丸帯や紙子羽織が現存することから、この時代から存在したのかも知れない。

 また『本朝二十不孝』(貞享三年刊)には

紙子頭巾を被り棒組の口を揃え、御厄佛に出でける
とある。ここで見える「紙子頭巾」は浪人者などが用いたものだといわれ、元禄期から以後流行し、幕末には近い文化七年頃に上方で流行したことが、『攝陽希觀』(巻四十四)に
文化七年─當冬紙の頭巾はやる
と見えていることからも分かる。

 『近年諸國咄大下馬』(貞享三年刊)(三)「大晦日は合わぬ算用」に江戸品川の浪人原田内助が女房の兄に無心して金子十両を借受けた嬉しさに雪の夜日頃別懇な浪人仲間を招待すると

以上七人の客何れも紙子の袖を連ね、時ならぬ一重羽織どこやら昔を忘れず
とある。落ちぶれた浪人共が正月も近い寒空に時ならぬ紙子を着て、昔話を淋しくしている姿が現れている。

 西鶴の遺稿集『織留』を編纂した遺弟団水をして「商職人の閲するに、日用世を渡るたつきに心を得べき亀鑑たるべきもの」といわしめた、元禄商人の栄枯盛衰を描いた傑作『日本永代蔵』(元禄元年刊)の中には、3つの条に紙子の名が見えている。

(巻三ノ五)「紙子身袋の破れ時」
この人親代にはわずかの身袋なりしが、安倍川紙子に縮緬を仕出し、又はさまざまの小紋を付け、此所の名物となり、諸国に賣りひろめ、はじめは一人なれば三十余年に千貫目といはれける。其の子には利發生まれおとりて忠助家をしつて三十年あまり、勘定なしの無帳無分別

(巻四ノ一)「折る印の神の折敷」
身に渋帷子を着せ、頭に紙子頭巾を被らせ、手に破れ團をもたせ

(巻六ノ二)「見立てゝ養子が利發」
ちやんぬりの油かはらけ、しほの紙たばこ入外の人のせぬ事に十五年たゝぬうちに三萬兩の分限になって

 「折る印の…」で見える紙子頭巾は前述の『本朝二十不孝』に見えるものと恐らく同じ型のものであろう。また「紙子身袋の…」「見立てゝ…」については、次章の「安倍川紙子」の条で詳しく説明することにする。 先の『日本永代蔵』の五・六巻目の流れを汲む『世間胸算用』(元禄五年刊)(巻二)にも紙子が2、3描写されている。
紙子頭巾深々と被り山椒の粉、胡椒の粉を賣り廻りて 其隣はむつかしき紙衣牢人武具馬具年久しく賣喰にして 大晦日の祝儀紙子一疋 白石の紙子二たん
 「むつかしき紙子牢人」とは紙子を着る者が大抵は貧者か零落した武士と相場が決まっていて、その典型を表現したものであるが、一方「白石の紙子」としてこの当時第一級とされた奥州白石の紙子を祝儀に用いているところを見ると、紙子のステイタスがかなりのものであったことも伺える。 井原西鶴が元禄六年に没したその2年後、遺稿集として出版された『俗つれづれ』(元禄八年刊)(巻四ノ一)「孝と不孝の中に立つ武士」の中にも
久しく浪人せしうちに、世を渡る種とてさまざま工夫仕出して、かたの如く紙細工を得た
とある。ここで登場する浪人は、駿州安倍川のほとりで暮らす親孝行な紙子職人に絞紙の製法を教えたという伝説がある筑前国の武士のことで、この浪人が安倍川紙子の始祖であるという推察が出来るのだが、それは次章の「安倍川紙子」の条にてしたい。

 このように西鶴は多角的な視点で「ヒト」を見つめることにより、元禄期の町民・武士のありのままの姿を映し出していった。その際キーポイントになるのは、例えば金銀幣であったり三欲であったりしたが、この中に「紙子」も少なからず入れられるものであったことは、上記の数々の紙子への描写によっても明らかである。文学にリアリズムを取り入れた先駆けの作家の仕事として、この紙子の描写は他の「ヒト」へのものと同じく、元禄期の現実がそこには存在するのであろう。されば元禄期に於いて紙子は、それだけ一般の町衆に浸透した普通の「モノ」であったということが言えるのではないか。


○ 式亭三馬

 降って江戸後期に活躍した式亭三馬(1776-1822)は江戸の中・下層民の生活を会話形態の文章で、皮肉と笑いで痛切に描く「滑稽本」の代表的作者として現在でも評価の高い作家であるが、彼の代表作『浮世風呂』(文化年間刊)(上)にも紙子の描写が見られる。

七十ばかりの隠居、置き頭巾、紙子の袖無はおり、十二三の丁稚に浴衣をもたせて杖にすがり
 ここで見られるように紙子を着るのは大抵壮老齢者であったようだ。前述の斯波園女の句にあるように数々の贅を尽くしたあげくにたどり着く無我の境地のようなものであろう、その素朴さを求めるのはやはり人生の艱難をくぐり抜けてきた老人であった。章の最初に述べた、茶人が紙子を愛用したのはこのような理由からくるものと考えられるのではなかろうか。


  •  演劇に於いて